品名原文年代年号文献資料記録
うす -53 -19

中国農業史・天野元之助 前漢の末頃揚雄の撰した『方言』5に、「磑 或謂之サイ」とあり、−−−。スリウスヲ意味する文字ノ文献に初見するノハ、前漢のおわりのことである。
むぎ 小麦 -53 〜-19

中国食物史。篠田統 考が流域の漢人文化圏に運ばれた実用小麦はパン小麦で、同時に製粉技術も伝わった。時期は前漢末期で、いわゆる帳騫物の一つである、と私は見ている。
さくべい 索餅 25 〜220

釈名・後漢代の字書 蝎餅・髄餅・金餅・索餅皆随形而名
めん 100 後漢代

説文 麺 麦マツ也
へい 100 後漢代

釈名 餅 令糯麺合并也
うす 碾・水碾 100 後漢代

中国農業史・天野元之助 後漢代のころに、碾(テン)あるいは碾子(テンズ)とも呼ばれる臼が現われる。粟や黍の精白用に使われ、五魏の頃には、水車動力で動かす水碾も造られた。
うす 製粉工場 200

フランス、アルル地方のバルブガルにローマ人は大規模な水車製粉工場を造った。
うす 蓄力磑 220 〜80

中国農業史・天野元之助 三国時代 牛、ロバの蓄力利用の挽臼ができる。
うす 水磑 386 〜534

中国農業史・天野元之助 後魏時代 水車を動力源とする水磑といわれる挽臼の出現。その製粉能力は蓄力磑の三倍もの能力をはっきした。
へい 髄餅 530 〜50

斉民要術・賈思キョウ・後魏・西山、熊代訳 髄餅(ずいあぶらかたやきの)法 髄脂(今多くは牛髄)と密を合わせて麺に和ぜ、厚さ四五分、広六七寸(の餅)とし、そこで胡餅火床の中に入れて熟す、反覆してはいけない。餅は肥美、久しくおける。
へい 白餅 530 〜50

斉民要術・賈思キョウ・後魏・西山、熊代訳 白餅(まんじゅう)を作る法 麺は一石。白米七.八升で粥を作り、白酒(にごり)六.七升でもって、酵汁(しらかす)とする。これを火の上におき、酒が魚眼に沸くと滓を絞り去る。そこで麺に和ぜ、麺が起きると作れる。
みずもみ 水引(みずもみ) 530 〜50

斉民要術・賈思キョウ・後魏・西山、熊代訳 麺を細かに絹篩して、調成した肉○汁の冷えたので、これらを溲ねる。ゆびもみして箸ほどの大きさにし、一尺ずつに断ち、盤(ひらばち)の中に水を盛って浸す。両手を鍋の上にかざし、そこでゆびもみして韮葉ほどに薄くしながら、沸きしだい煮るとよい。
みずもみ 水引(みずもみ)ほうとう 530 〜50

斉民要術・賈思キョウ・後魏・西山、熊代訳 ホウトウは、ゆびもみして母指ほどにし、二寸ずつに断って、水盆の中に浸す。手を盆(ひらがめ)のわきへ向けゆびもみしてゆき、極く薄くするがよい。ふたつとも、強火で沸きしだい煮こなすのである。たんな光沢があり白く可愛いばかりでなく、また自ずと滑美なこと、常のものと異なる。
ほうとう ホウトウ(みずもみ法) 530 〜50

斉民要術・賈思キョウ・後魏・西山、熊代訳 ホウトウは、ゆびもみして母指ほどにし、二寸ずつに断って、水盆の中に浸す。手を盆(ひらがめ)のわきへ向けゆびもみしてゆき、極く薄くするがよい。ふたつとも、強火で沸きしだい煮こなすのである。たんな光沢があり白く可愛いばかりでなく、また自ずと滑美なこと、常のものと異なる。
そば 蕎麦 530 〜50

斉民要術・賈思キョウ・後魏・西山、熊代訳 巻頭の雑説 秋穀の収穫が終わったら最初に蕎麦畑を耕し、それから他の畑を耕す。(要術本文には蕎麦について一言もふれた所がなく、南北朝時まではちゅうごくにはまだ蕎麦は知られていなかった。したがって、この巻頭の雑説は後代の加筆である)
へい 540 〜71

神饌・神と人との饗宴・岩井宏実 京都鴨神社の葵祭は古く欽明天皇の頃から始められたものという。この鴨神社の神饌(神の食事)の中に、麺と米粉で作る漢代の餅食品がある。フト、マガリである。小麦粉7と米粉3の割合は索餅と同じものだ。
むぎ 麦種 551 欽明 12

日本書紀・巻十九 欽明天皇十二年春三月。以麦種一千斛いちつか賜百済王。

品名原文年代年号文献資料記録
うす 碾磑 610 推古 18 3

日本書紀・巻22 高麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。またよく彩色及び紙墨を作る。あわせて碾磑を造る。碾磑を造るのはこの時に始まる。
うす 碾・磑 618 唐代

つるつる物語 唐代になると、河川沿いに碾・磑小屋が立ち並び、灌漑用水を必要とする農民と、水車用水をめぐる水利権の争いが各河川で頻発。小麦粉の需要が強まれば碾・磑小屋は数を増し、農業用水は不足し、設置を制限すれば小麦粉の価格は暴騰する。碾・磑経営は権力に結びつく貴族、寺院に独占され、相続をめぐる争いも頻発する。唐朝の経済基盤は小麦栽培と碾・磑技術による事大であるが、社会問題をも引き起こした。
うす 水碓 670 天智 9 9

日本書紀・巻27 この年、水碓を造りて冶金(かねわか)す。
むぎ 麦作奨励作 686 〜97

類聚三代格巻八 政府所有の麦の種を百姓に分け与え、天下に麦を植えしめよ。
さくべい 索餅 700

つるつる物語 索餅は奈良、平安時代を通して朝廷の元日の節会、一月一日、一月七日の白馬節会、一月十六日の踏歌節会、十一月一日の冬至節会などに臣下に下された食物だった。
むぎ 712

古事記 スサノヲが大気都比売オオゲツヒメに食物を乞うたところ、大気都比売は、鼻や尻から食物を取り出して、スサノヲに進上した。これわ見て、スサノヲは汚いと怒り、大気都比売を殺してしまった。その死体の頭に蚕、両の目に稲、耳からは粟、尻には大豆、そして陰ホトから麦がうまれたと語る。
むぎ 麦作奨励作 715 霊亀 1 10

続日本記・巻七 国家の隆泰は、要するに民を富ますに有り。───。今諸国の百姓いまだ産術を尽くさず、ただ水沢の種におもむき、陸田の利を知らず。或はひでりにあえば、、さらに余穀無く、秋稼もしきわまれば、多く飢饉を起こす。これすなわち、ひとり百姓のおこたるところに非らず。もとより国司の教導なきことによる。百姓をして麦禾あわを兼ね植えしめよ、男夫一人ごとに二段ならしむべし。およそ粟は窮乏を支えて敗れず。諸穀の中に於いて、もっとも精好なり。この事実を広く天下に知らしめよ。力を尽くして耕種し、時候を失わしむることなかれ、余りある雑穀は、力に任せて之を課せよ、もし百姓が粟を作らず稲に転向することが有れば之を充分に調べよ。
むぎ 蓄馬 718 養老 2

続日本記・巻八 蝦夷地から友好の証といって、馬千頭を献上して来る。
むぎ 五穀 720 養老 4

日本書紀 稲、麦、粟、稗、豆(奈良時代)
むぎ 蓄馬制限 721 養老 5

続日本記・巻八 都では、蓄馬熱が高まり、良馬を得ようとするあまり、家財を失う者、はては、都大路の真中で、馬がもとでの喧嘩が続発し、朝廷は蓄馬の制限に踏み切った。
むぎ 麦作奨励作 722 養老 6 7 19 続日本記・巻八 私は心をむなしくして、帝王の大業を受け継ぎ、己に尅って自ら勉るも、いまだ天心に達せず、そのために今夏雨降ること無く、苗稼登らず、天下の国司たちは、百姓をはげまし、仕事を割り当てて、粟、蕎麦および大小の麦を植えしめ、蔵置保管し、もって飢饉に備えしむべし。
そぱ 蕎麦 722 養老 6 7 19 続日本記・巻八 私は心をむなしくして、帝王の大業を受け継ぎ、己に尅って自ら勉るも、いまだ天心に達せず、そのために今夏雨降ること無く、苗稼登らず、天下の国司たちは、百姓をはげまし、仕事を割り当てて、粟、蕎麦および大小の麦を植えしめ、蔵置保管し、もって飢饉に備えしむべし。
むぎ 麦作奨励作 723 養老 7 8 28 類聚三代格・巻八 太政官符 畿内七道諸国大小麦を耕種する事 右、麦を必要とする人にとっては、とりわけ切実なものがある。食糧不足を補うに、これに勝るものはない。それ故に、持統天皇の世に、官物を割き取り、天下に播植させたのだ。この年以来、多く耕種を欠き、飢饉にいたり艱辛まことに深いものがある。百姓をはげまし、時期を失う事の無いようにせよ。その耕種の町段、収穫は、年毎に具録し、計帳使に附して報告せよ。
さくべい 麦縄 734 天平 6

大日本古記録 3例 了
さくべい 麦縄 739 天平 11

大日本古記録・写経司解 毎日、麦縄を支給して欲しい。
さくべい 田束 758 宝字 2

大日本古記録 2例 懸
きぐどうぐ 麦院 758 宝字 2

大日本古記録・東寺写経所解 申請器事 合四種麦碗(わん)百五十口 片盤百五十口 羹杯二百口 饗杯百五十口
きぐどうぐ 麦わん(土偏に宛) 758

平城宮発掘調査報告 閉場宮跡出土の須恵器の裏に「麦」と、墨書のあるもの出土。これが麦碗。
さくべい 索餅 758 宝字

大日本古記録 25例 藁
さくべい 索餅 760 宝字 4

大日本古記録 3例 藁
さくべい 手束 762 宝字

大日本古記録 1例 懸
さくべい 索餅 762 宝字

大日本古記録 6例 藁
さくべい 索餅 763 宝字 7

大日本古記録 2例 藁
さくべい 索餅 764 宝字 8

大日本古記録 5例 藁

麦作奨励作 766 天平神護 2 9 15 類聚三代格・巻九 五回目の麦作命令発布・大納言正三位吉備朝臣真吉備、大小麦の作付けに当たり、国群司を一名選び、管理責任者とし、その報告を計帳使の上司、最高地方官の朝集使に報告させる事とした。
さくべい 索餅 769 神護 3

大日本古記録 16例 藁
さくべい 索餅 770 神護景雲 9 29

大日本古記録・写経司解奉写一切経用渡文案 17:11 99/09/21。小麦一石五斗七月一日請、用五斗、索餅一百三十六藁作料、残一石。醤大豆弐石、小豆弐石六月十八日請、用一石六斗五升九合、一石一斗九升九合、経師一千百十三人装黄。索餅韲(あえる、なます)料。(索餅の小豆和え)
むぎ 五穀 800

稲、麦、黍、禝ショク・タカキビ、豆。(平安時代)
むぎ 馬草禁止令 808 大同 3 7 13 類聚三代格・巻九 天平勝宝(751年)の禁止一回目では、売り手の百姓を罰したが、今回は買い手の富豪の輩、そして彼らを管理する役人をも処罰のたいしょうとした。
むぎ 馬草禁止令 819 弘仁 10 6 2 類聚三代格・巻九 太政官符 麦を馬草に売買するを禁断する事 右、去る天平勝宝(751年)3月14日の格にいう。大小麦はね夏の乏しきをよく助ける。愚かな百姓、後に欠くることを考えず、にわかに青麦を刈りて食不足をきたす。今より後、かたく禁断す。もし違反することあらば、必ず重罪を科す。
むぎ 馬草禁止令 819 弘仁10

類聚三代格・巻九 馬草禁止令発布
むぎ 麦作奨励作 820 弘仁11

類聚三代格・巻九 六回目の麦作奨励作発布
うす 水車 829 天長 6

類聚三代格巻八 水田には、旱魃という厄介な問題がある。伝え聞くところに依れば、唐の国では、水の引けない土地には、水車を構えて水をくみ上げて、立派に作物を作るという。子の水車を造り、作物を増産しましょう。水車は手で回しても、足で踏んでまわしてもいい、あるいは牛に回させてもいい。金が無くて水車を造れない者には、国司が造って百姓に与えればよい。こわれたり修理に要する費用は、救急稲を利用すればよい。(大納言良峯安世の進言)
うす 碾磑 833 天長 10

令義解 巻一 主税寮 頭一人。倉庫、出納、諸国の田租、舂米、碾磑を掌る。(757年の養老令の注釈書)
うす 碾磑 833 天長 10

令義解 巻十 取水灌田条(碾磑を設置する際の注意事項有り)
めん 833 天長 10

令義解 米のクタケタルヲ粉という。麦のクタケタルヲ麺という。
ほうとう

838 〜48

入唐求法巡礼行記・円仁 巡礼中、三回各地でホウトウを食べている。
むぎ 麦作奨励作 840 承和 7

類聚三代格・巻九 七回目のこの麦作奨励策の発布を最後に、馬草禁止令も麦作栽培令もぷつりと途絶える。
さくべい 索餅 856

膳夫経手録・中国食物史・ 不飩(フト・わがほうとうの類)には薄くのばした細粟のもの、帯のようで長いもの、───切麺筋(日本の尋常のうどんと思われるが、麺筋=小麦粉のうち麩成分をさす)───などと種類は多いが、みな不飩の仲間だ。生羊肉を碗におき、不飩で覆い、五味の汁をかけ、椒酥を和えたものを鶻突不飩という。冷陶といい、索餅といい、幹切という。みな不飩の法と同じ。
うす 碾磑 859 〜76

令集解 巻四 碾磑 水碓(槽碓)を謂う也。米を作るを碾といい、石を以って碓(たい)と為し、木を以って杵と為す。麺を作るを磑といい、臼杵共に石を以って作る也。
さくべい 索餅 890 寛平 2 2 30 師光年中行事 宇田天皇宸記を引用して・正月十五日、七種粥。三月三日、桃花餅。五月五日、五色粽。七月七日、索麪。十月初、亥餅等。俗間に行い来る。もって歳時となす。自今以後、色ごとに弁じ調べ、よろしくこれを供奉すべし。
さくべい 索餅 927 延長 5

延喜式33・771 索餅材料、道具の記述有り。
さくべい 索餅 927 延長 5

延喜式j巻42・928 索餅てん両市にあり、麦てんは東市のみ。
むぎ 小麦 927 延長 5

延喜式 巻三十三・造雑物法 末醤料 醤大豆一石、米五升四合、檗料小麦五升四合、酒九升、塩四斗、得一石。(米麹に加えて新たに小麦麹が作られた)
さくべい 索餅 927

延喜式・巻三十三・大膳下・年料 索餅料 原材料の小麦と米粉(小麦三十石 粉米九石)は、搗臼(臼一腰・杵二枚)で搗き、ふるいにかけて粉とする。湯を沸かし、塩(紀伊塩二石七斗)を溶かしこむ。小麦粉と米粉を臼に入れて混合し、さきほどの塩湯を注ぎ入れて練り合わせる。さめぬうちに調理台の上で押し広め、これを包丁(刀子四枚)で細長く切る。これを竹(竹百五十株)に掛け、乾燥し、乾いた索餅は、籠(乾索餅籠十六口)に取り入れて保存する。前掛・白衣・シタミ。(ふりざる、上げざるにつかうざるなど有り、これらの調理責任者は高橋氏である)
さくべい 手束索餅 927

延喜式・巻三十三・大膳下・年料 索餅料 小麦粉二石五斗、米粉六斗、塩五升、得六百七十五藁。手束索餅亦同。
さくべい 索餅料 927

延喜式・巻三十三・大膳下 小豆、酢、醤、生、薑(はじかみ)、胡桃、生栗。 索餅に入れて食べた。
さくべい 索餅 931 〜37

和名類聚抄 索餅 釈名云蝎餅髄餅金餅索餅和名無木奈波大膳式云手束索餅多都加皆随形而名
こんとん コン飩 931 〜37

和名類聚抄 餅 キザム肉麺裏煮之
きぐどうぐ カン麺杖 931 〜37

和名類聚抄 カン麺杖 牟岐於須紀 (麺棒のこと)
きぐどうぐ 笊籬ソウリ 931 〜37

和名類聚抄 無岐須久比 むぎすくい 麦索煮籠以竹編為之
きぐどうぐ シタミ竹冠に羅 931 〜37

和名類聚抄 和名 之太美シタミ 筐カゴ底方上円
きぐどうぐ たい 931 〜37

和名類聚抄 賀良宇須 踏舂具也
きぐどうぐ がい 931 〜37

和名類聚抄 一名セツ(石偏に妻)磨ロウ(龍の下に石)也 和名須利宇数
うす 960

るつる物語 907年に唐が滅び、960年に開封を都とする宋が建国された。そして1127年、江南の浙江省杭州に都を移した。華北の磑は江南の稲作地帯に入ると磨と呼びかえられていた。
さくべい 967 延長 5

延喜式隼人司式 大嘗会に供すべき竹器、───索餅を乾かす籠二十四口───、預、前に造り備えて宮内省に送れ。衛門府に属し、宮文の護衛にあたる。大嘗会に隼人毎を舞う。
さくべい 索餅 967

九條年中行事 ───。次給臣下索餅。───次給臣下菓子。
かし 菓子 967

九條年中行事 ───。次給臣下索餅。───次給臣下菓子。
ほうとう ほぞちはうたう 990

枕草子・12 しばしほぞちはうたうまいらせせんなど───。(ほぞちとは熟れたまくわ瓜)

品名原文年代年号文献資料記録
さくべい 下器カヅキ 1005 寛弘 2 12 17 小右記・藤原実資 旬ノ儀例の如し。紫宸殿の儀の如し。───。最初下器(瓜船型をした器)の内ジュ(子供)等南庭ヲ渡り、東の階に就、諸卿、事の由を示し、索餅を遣り頒くるのところ、───。密密朱器を持ち向ふ。四月一日(孟夏旬)、十月一日(孟冬旬)に天皇が群臣に扇や氷魚を賜う宴を旬儀とよぶ。これは臨時。
きぐどうぐ 下器カヅキ 1005 寛弘 2 12 17 小右記・藤原実資 旬ノ儀例の如し。紫宸殿の儀の如し。───。最初下器(瓜船型をした器)の内ジュ(子供)等南庭ヲ渡り、東の階に就、諸卿、事の由を示し、索餅を遣り頒くるのところ、───。密密朱器を持ち向ふ。四月一日(孟夏旬)、十月一日(孟冬旬)に天皇が群臣に扇や氷魚を賜う宴を旬儀とよぶ。これは臨時。
ほうとう ホウトウ 1007 寛弘 4 2 30 御堂関白記・道長 草朝就馬場殿、ホウトウ如常。
ほうとう ホウトウ 1018 寛仁 2 3 2 小右記・藤原実資 僧侶を丁重にもてなすために一年間ほうとうを送りつづけた。
そ1ば 栽培 1058

新猿楽記 明衡 彼の畠に蒔く麦や大豆・大角豆・小角豆・粟・黍・蕎麦・胡麻は、いつも実をいっぱいにつける。
ほうとう ホウトウ 1058 〜64

康平記・平定家 ───。次ホウトウ妓女八人。打ホウトウ。曲終賜禄。
そば 蕎麦 1058

新猿楽記 三の君の夫は、耕農を業とする大名田堵であるる彼の畠に蒔く麦や大豆、大角豆、小角豆、粟、黍、蕎麦、胡麻は、いつも実をいっぱいにつける。
ほうとう ホウトウ 1087 〜1138

中右記

さくべい 索餅 1097 承徳 1 10 15 中右記・藤原宗忠 先ず南殿に出御(堀河天皇)出御す。───。おのおのの箸・匕(さじ)を置く、采女、四種を供御す。次に臣下に四種を賜ふ。下器(カヅキ)を渡す。索餅を供す。
きぐどうぐ 索餅 1097 承徳 1 10 15 中右記 ───。次臣下に四種賜う。下器カヅキを渡し、索餅を供す。───。
さくべい 索餅 1097 承徳 1 10 15 中右記 ───。次臣下に四種賜う。下器カヅキを渡し、索餅を供す。───。
さくべい 麦縄 1106 嘉承 1

今昔物語・巻十九・第二十二話 僧侶が麦縄を粗末に扱ったために蛇に化けたという話。
さくべい 索餅 1111 天永 2 8 16 長秋記 相撲人等に索餅を賜わる───。
むぎ 1118 天永 1

平安遺文 藤原兼房の所有する借り入れをすませた乾田に、風浪人の籐太が麦を蒔いている。何としても止めて欲しいと検非違使の伊勢大神宮に訴えた。判決は兼房が麦を蒔くというなら、停止させる。そうでなければと籐太は止めない。というものだった。
むぎ 蒔き 1118

平安遺文 1892

ほうとう ホウトウ 1136 〜1155

台記別記 ホウトウのショウ記述有り
むぎ 五穀 1140

保延六年如法尊勝法記 稲、大麦、小麦、大豆、胡麻、(平安末)
さくべい 索餅 1145 久安 1

朔旦冬至部類記群7・58 受索餅還。毎酒器盛之。供御料供索餅云々。  藤原朝隆卿云
くべい 索餅 1149 久安 5 7 7

うす 1168 仁安 3 4

つるつる物語 栄西入宋、わずか五ヶ月で、二年前に入宋していた重源と共に帰国。1187年再入宋。抹茶製法を学ぶ。
むぎ 1192 建久 3

平安遺文 むぎこがし五袋、夏畠地子麦十石。
うす 水車 1195

東大寺造立供養記 水車にて米を舂く。
そうめん 索麺 1206

家必要事類全集 索麺 良質の小麦粉を用いる。春夏秋は新しい汲み水を使う。水に油と塩を入れ、小麦粉に混ぜてこねる。さらに油を加えながらねる。そして太目の箸ほどに引き伸ばす。何本も同じ長さに作る。太い細いのないようにする。一本ずつたるみのないように置き、油紙をかけておく。しばらくして、二本の箸棒に、これを一本ずつからませて、さらに細く長く引き伸ばす。そして乾燥させる。
そうめん 不入索麺 1206

居家必要事類全集 或は、油を用いずにこねる。米粉を付けながら引き伸ばして細くする。さらに米粉を付けて引き伸ばす事数回、丸く細長くしたら、不ぞろいのものを取り出し、もう一度、均一に成るように伸ばす。そして乾燥する。
すいかめん 水滑麺 1206

居家必要事類全集 水滑麺(すいかめん) 小麦粉に水と油と塩をまぜ合わせてねり、棒でもむ。粘りがでたら指の太さにして水に入れて浸す。しばらくして、好みの太さに引き伸ばし、鍋に入れてゆでる。
てったいめん テッ帯麺 1206

居家必要事類全集 テッ帯麺(てったいめん) 水と塩で小麦粉をねり、ねり棒で、ごく薄く伸ばし、テッ帯の如くに切る。(テッ帯とは麻の腰紐のこと)
たくしょうめん 托掌麺 1206

居家必要事類全集 托掌麺(たくしょうめん) 小麦粉を塩水でねり、盃の口ほどの大きさにする。薄いほどよい。者熟して、冷たい肉汁入れて浸し、さらに汁を抜きかえて、黄瓜絲、鶏絲を加え、にんにく汁か、のびるの汁をかけて食す。
こうしめん 紅絲麺 1206

居家必要事類全集 紅絲麺(こうしめん) えびをたたき砕いて、汁をこして澄まし、その汁を小麦粉に入れてねる。薄く伸ばして切り、者熟する。するとね麺は自然に紅色となる。
すいろうめん 翠縷麺 1206

居家必要事類全集 翠縷麺(すいろうめん) 槐(えんじゅ)の若葉を絞り、小麦粉に入れてねる。押し広めてから、ごく細く切る。味は甘く、色は萌黄色である。
こんとん コントン 1206

居家必要事類全集 コントン(こんとん) 小麦粉を円錐でねり、小さな団子にし、棒で円く押し広める。まわりをごく薄くして、中に餡を入れ、まわりに水をつけてはり合わせる。
むぎ 五穀 1213

仁王経修法問答 大麦、小麦が入る。
うす 1214 建保 2 2 4 吾妻鏡 昨夜、安達景盛の御所で酒を飲みすぎた実朝は、朝から二日酔いに苦しんでいた。人らが奔走して治療に努めたが、ちょうどこの時、将軍実朝の加持祈願のため寿福寺にいた葉上僧上が、良薬と称す「一盞の茶」と、「茶の徳を誉める書」とを将軍に献上した。実朝がこの茶を飲むと、たちどころに二日酔いは治まった。気分は爽快となり、実朝は、大いに喜んだ。(喫茶養生記と抹茶・茶を粉にする茶磨・挽臼を栄西は持っていたことになる)
さくべい 索餅 1214

年中行事抄 七月七日 昔、麦餅の好きな子供が、七月七日に死んだ。死後、その霊が片足の鬼人となり、人々に瘧病みをふりまいた。さこで、その霊をしずめるために、七月七日には麦餅を供えた。この麦餅を食べると、その年中に瘧病にかかることがない。(中国の行事書・十説記を公家たちは取り入れた)
めんじゅう 麺汁 1223 貞応 2 4

典座教訓・道元 明日の五月五日は、大衆に供養する日なのだが、みなを喜ばせるおいしい食物がない。麺汁を作ろうと思うのだが、あいにく、その出し汁に使う椎茸を切らしてしまった。この日本船にやってきたのも、その椎茸を買い求めにきたのだ。
むぎはたけ 麦畠 1224 貞応 3 5 4 備中国新見庄史料1・造東大寺養得奉書案 新見御庄田所名事、可為一向不輸地之由、被成御下文候了。麦畠不可有検注也。可令觸其旨給。仍執達如件。貞応三 五月四日  造東大寺養得 菅符生殿 
むぎ 麦畠 1224 貞応 3 5 4

備中新見庄で、麦の課税問題が起こった。下級役人の菅符生という者が、田所名の麦畠を険注しようとしたところ、名主の忠国は、「麦畠は険注有らざるべき也」と、断固、拒否抵抗した。
そうめん 1235 嘉禎 1 4 1 禅宗編年史・164 圓爾弁圓、神子栄尊、満田彌左衛門等、入宋の為、肥前平戸津を出帆し明州に着し、同夏、圓爾は景福律院に入る。この時、満田は支那の織物を伝えて後の博多織を創め、宋焼、素麺を本邦に伝える。
そうめん 素麺 1235 嘉禎 1 4 1 禅宗編年史・164 聖一国師年賦・元亨釈書七・名僧行録・神子年譜・同行實・法燈国師年譜・扶桑禅林僧實伝・龍門夜話上・夢想録考証
うす 挽臼 1236

読売新聞・1976.12.9 韓国沖の沈没船から、青磁、白磁にまざって、穀物用の挽臼が二対引き上げられた。この船の所有者は、栄西の布教する臨済宗東福寺(1236年建立)だったという。
そうめん 素麺 1241 仁治 2

禅宗編年史・圓爾弁圓・159 帰国後、博多の承天寺・横岳の崇福寺を建立・満田弥左衛門はシナの織物を伝え・博多織・博多素麺、また聖福寺の喝食菊庵之を作り、後の伊予素麺の起因となるともある
へい 1246 寛元 4

赴粥飯法・道元 飯椀から飯を取り出す方法は、右手の親指と人さし指とで七粒ほどを取り出し、鉢刷柄(はっせつぺい)の上に置く、餅や麺の類は、半銭ほどの大きさでよい。
めん 1246 寛元 4

赴粥飯法・道元 飯椀から飯を取り出す方法は、右手の親指と人さし指とで七粒ほどを取り出し、鉢刷柄(はっせつぺい)の上に置く、餅や麺の類は、半銭ほどの大きさでよい。
めん 1248 宝治 2 3

禅宗編年史・185頁 嗟乎者漢、一片利心、落八識田中、如油入麺、永劫不可除、又恐胎辱於大法  道元
そば そまむぎ 1254 建長 6

古今著聞集・橘成季 道命阿闍梨修行しありきけるに、山人の物をくわせたりけるを、これはなにものぞと問ければ、かしこにひたはへて侍るそまむぎなんこれなりといふを聞て、よみ侍れる。ひたはへて とりだにすへぬ そまむぎに しらつきぬべき こゝちこそすれ。
うす 磨臼 1261 弘長 1 3 17 力王丸田畠家財譲状・京都大学所蔵文書 力王丸は仁和寺の牛飼童で、その名を襲名する子息、力王丸と毘沙王丸の二人に「二つあらん物は、一つこれをとるべし」といって、家財を分け与えた。この財産目録の中に「立臼一、磨臼一」があった。
むぎ 二毛作 1264 文永 1 4 26 関東御教書 諸国の百姓が、稲を刈り取った後に麦を作り、田麦と称しているが、この多麦に課税することは、以後、禁止する。田麦は百姓の収入とせよ。
さくべい 索餅 1284 弘安 7 11 18 勘仲記 索餅・コントン
かし 八種唐菓子 1300

厨事類記 梅子・桃子・桂心・黏セイ・ヒツラ・團喜・鎚子・カッ餬
ほうとう バウタウ 1300

厨事類記 バウタウハヨキ暑蕷ヲヲロシテ、コメノコニアワセテ、ヨクヨクレム木ニテヲシヒラメテ、粉ヲスコシカケテ、カタナニテ長二寸アマリニキリテ、サクヘイノヤウニホソクキリテ、ユヲワカシ、ユデテトリアゲテ、アズキノスリシルニテマイラス。
さくべい サクヘイ 1300

厨事類記 バウタウハヨキ暑蕷ヲヲロシテ、コメノコニアワセテ、ヨクヨクレム木ニテヲシヒラメテ、粉ヲスコシカケテ、カタナニテ長二寸アマリニキリテ、サクヘイノヤウニホソクキリテ、ユヲワカシ、ユデテトリアゲテ、アズキノスリシルニテマイラス。
くべい 索餅 1300

厨事類記 七月七日 索餅・御菓子八種───。
さくべい 索餅 1316 正和 5

大外記良枝記云。次将下殿。仰内監令進索餅───。
そば 栽培 1324 元享 4

上久世御年貢 御公事用余事 一.秋畠蕎麦代 五石九升五合 (山城国上久世荘)
うす 1332 元弘 2 6 5 花園院晨記 各種の茶を飲み分けて、勝負を競う茶会が流行る。
そば 年貢 1334 建武 1 3 7 備中国新見庄史料125・代官尊 蕎麦 拾五石六斗四升六合五夕
そば 栽培 1334 建武 1

備中国新見庄東方地頭方損亡検見併納帳 蕎麦 弐拾壱石壱斗二升二合六夕 内三石 御代官得分下行之 (岡山県新見市)
そうめん 麦麺 1340 暦応 3 1 4 師守記1 今日風呂始、例の如し、幸甚々々、山臥、一瓶・麦麺(素麺)等を持参
そうめん 華麺 1340 暦応 3 2 10 師守記1.90 今日有風呂、醍醐僧懃仕之、持参華麺以下茶等───。今夜山臥良清招引───。
そうめん 華麺 1341 暦応 4 1 11 師守記1.204 今日山臥律師良清華麺已下持参之───茶。
そうめん 素麺 1343 康永 2 7 7 祇園執行日記 一.丹波より索麺公事免除の間、一両年、上さず。よって素麺の儀これを沙汰す。坊人・宮仕等少々来る。
そうめん 素麺 1345 康永 4 3 5 師守記 3 今日、黒法師、読経の合間に素麺を召す。
そうめん 素麺 1345 康永 4 3 5 師守記 3 今日黒法師進五連之間、御賞翫素麺。
そうめん 素麺 1345 康永 4 6 14 師守記 3 祇園御霊会なり。鉾例のごとし。御行、亥に始む。───今日おのおの出でこれあり。青侍ばかりなり。近年のごとくこれあり。素麺なり。
そうめん 素麺 1345 康永 4 6 27 師守記 3 今日持藏堂長老来臨、素麺巳下茶子───。
てんしん 点心 1346 貞和 2 2 17 禅宗編年史・574 夢想疎石筆・天竜寺臨幸私記。太上天皇・持明院殿に点心を献ず。
こんとん コン飩 1347 貞和 3 1 16 師守記 4 御膳事、国俊郷下殿被仰康隆、臣下コン飩、───。
そうめん サウメン 1347 正平 7 5 10 嘉元記 三肴・毛立・タカンナ・ウトム・フ・サウメン・一折敷・数六・粽。ムキ粽一杯・アメ一杯・ワリコ・ヒワ一フサ・白瓜少々・ハイ少々。
うどん ウトム 1347 正平 7 5 10 嘉元記 円識房快賢去年合戦に従う。恩賞中臈の三経院においてこれあり。三肴・毛立、タカンナ・ウトム・フ・サウメン一折敷、数六、粽。ムキ粽一杯・アメ一杯・ワリコ・ヒワ一フサ・白瓜切少々・ハイ少々。
そうめん 素麺 1349 貞和 5 7 7 師守記 4 今日は節供、この行事のみ有る。家では御粟薗の素麺を供える。
うどん 饂飩 1350

庭訓往来 十月三日 点心者 水繊 紅糟───饂飩 饅頭 索麺 碁子麺───。
ざつめん 雑麺 1361 〜1420

禅林小歌・浄土宗了誉聖冏(キョウ) 先点心次第。水晶包子、───饅頭───饂飩───柳葉麺、桐皮麺、てったい麺、打麺、三雑麺、素麺、───冷麺、更互これをそしりあう。
そうめん そうめん 1368 応安 1 11

大嶋神社・奥津神社御供定書案 定む 大嶋御供料の事。七月ニ早稲の御はつお七斗五升、同七日のさうめんの代二百文。七月七日のさうめんハ両もりあわせなり。よって後日のため状件のごとし。
そうめん 素麺供御人 1375 永和 1 8 28 東山御文庫記録 甲六十八 素麺供御人課役 可令管領之由 天気所候也 仍上啓如件  永和元年八月二十八日 右小弁判 謹上 頭左弁


文献資料1
BC-53〜AC1399
文献資料2
AC1400〜1499
文献資料3
AC1500〜1599